淡彩日記
心を浄化する功徳あらたかな烏枢沙摩明王を、このたび弘仁寺にお迎えいたします。
弘法大師(お大師さま)は1200年前から、ずっと一つの普遍的なメッセージを伝え続けてこられました。それは、「一切衆生──全ての生きとし生けるものの心の本源には、仏さまと等しく、清々しく澄み切った、安らかで穏やかな心がある」ということです。

この仏心はどのような心かというと、人が幸せにしているのを自分のことのように喜べる心です。人が苦しみ、悲しんでいるのを自分のことのようにいたみ、その苦しみをとってやりたいと願う慈悲の心です。あらゆるこころのはたらきが実体のない空であると見抜く智慧の心です。
私たちはその仏心を携えて「オギャー!」と生まれてきます。ですが、言葉を覚え、社会で成長していくにつれて、他の人からイヤなことを言われることもあるでしょう。蔑(さげす)まれることもあるでしょう。いじめられることも仲間はずれにされることもあるかもしれません。
そうして生じるのが「自分を守ろうとする心」です。本来の仏心ではないこの心が、過ぎ去った出来事を思い出すたびに暴走し、これを仏教では「煩悩(ぼんのう)」と呼びます。
その中でも瞋(しん)という激しい怒りの煩悩は、自分と人を比較して、自分を蔑みはずかしめた相手を激しく憎む心です。煩悩が暴走すると、心の中は憎悪の炎の黒い煙によって暗く覆われ、戦場のように乱れ、尽きることのない苦しみにさいなまれます。自らを守ろうとして自らが傷つく、これが煩悩の恐ろしさといえます。
この煩悩の構造は、現代社会のあり方にも深く関わっています。現代社会において、たとえ今後ロボットやAIなどの技術がどれほど進化したとしても、人間の「煩悩の暴走」を制御することは難しいかもしれません。
といいますのも、科学技術の開発が推進されるかどうかは、常に「経済的価値が増すかどうか」という価値判断に基づいているからです。
しかし、その判断基準には「優劣の比較」が必ず含まれています。そして、この比較こそが、人の心から穏やかさを奪い、煩悩の暴走を生む原因なのです。
経済成長や科学技術の発展を追い求めるだけでは、自分を守ろうとするあまり、かえって自分を傷つけるという矛盾が繰り返されてしまいます。
さらに、ロボットやAI技術は、「自分と他人の優劣を比較する心」を助長し、技術が進めば進むほど、あらゆるものごとを比較によって捉えさせようと、人の心に働きかけているのです。
ですが実は、2500年前からこの「自分を守ろうとして自分を傷つける」という煩悩の問題に真正面から取り組んできたのが仏教徒でした。お釈迦さま、お大師様の願いは、人々を煩悩の苦しみから救うことに他なりません。
仏教の歴史は、煩悩の暴走に巻き込まれている心を解放する道のりとして始まりました。
ですが、自分を守ろうと暴走する煩悩を自力だけで制御するには、煩悩の主張に振り回されない大変な勇気と、煩悩のいう理屈を幻だと打ち砕く絶大な知性、そして煩悩のもつ本来けなげなはたらきへの限りない愛情を伴った慈悲心が必要です。
そこで頼りになるのが、「信じられる師(明師)」の存在です。
今の時代でも、煩悩とひたむきに対峙している人は確かに存在しています。そのひたむきな生き様を見つめるのです。煩悩に真正面から向き合い、煩悩の暴走に振り回されなくなった人を見つけられたなら、自分も同じようにしようと思えるようになります。
やはり、人は結果にこだわらず、ただひたむきに頑張っている人を見ると、自然と元気をもらうようです。このことに理屈はなく、なぜかは分かりませんが、ひたむきに頑張る人を、私たちはただ、見つめていたいのです。
さて、ここまで、煩悩の暴走を無くせば楽になるということがわかっても、信頼できる明師が最初は中々見つからないかもしれません。
こういうとき密教では、自力ではどうにもならないほど強力な煩悩の暴走をおさめるために、浄化に特化した仏様のお力にすがるのをおすすめいたします。
まずは、修行が成就するようにお大師様をお参りします。「同行二人(どうぎょうににん)」お大師様と二人連れの思いを心に刻みながら、繰り返し、南無大師遍照金剛とご宝号をお唱えします。煩悩の暴走という問題に対して、お大師様と共に歩むと思えば、日々の希望となるはずです。
さらに、大日如来が変身されたお姿の不動明王をお参りします。不動明王の智慧の剣と智慧の炎を持って「この嫌な記憶と煩悩との結びつきを切り払い、焼き尽くして下さい」と願い、のうまくさーまんだーばーざらだん せんだーまーかろしゃーだーそわたや うんたらたー かんまん!と不動明王の真言を繰り返しお唱えします。やがて煩悩と出来事の結びつきは切り離され、跡形もなく焼き尽くされていきます。そうして次第に静かな喜びにつつまれた穏やかな心になっていくでしょう。
このように、お大師様、お不動様を日頃からお参りしていても、どうしても制御しきれない煩悩があるかもしれません。そうした心の奥にある煩悩に対して、密教では特別な仏さまのお力をいただくという方法がございます。
その仏様は、私たちの心の奥底にある最も醜く感じられる部分、お大師様やお不動さまに見せることさえはばかられる恐れの感情、自分の性格の問題に対する苦しみ、人から蔑まれるようなコンプレックス、トラウマと感じていることなど、相談することが恥ずかくて出来そうにない深い悩みを清らかに浄化してくださいます。
その仏様こそ、火頭金剛(かずこんごう)、穢積金剛(えしゃくこんごう)とも称される烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)です。トイレの神さまとしても親しまれるこの仏さまは、不空成就如来(お釈迦さま)が慈悲の心で変身されたお姿といわれています。四つの手に剣と、紐と、宝の棒と、三叉のホコをお持ちです。
烏枢沙摩明王は、火光三昧(かこうざんまい)に入られて、超高温の熱線によって私たちの心の中に固く固着した暗い記憶を焼き尽くして下さいます。そうして、つらい感情を伴う記憶から、感情と記憶を切り分けます。
烏枢沙摩明王のご真言、
①おんしゅりまり ままりまり しゅしゅり そわか
②おんくろだのう うんじゃく そわか
を何度も唱えてお参りするうちに過去の出来事が「ただの出来事」となり、思い出しても煩悩が動かなくなれば、心は真に静まります。
浄化とは、嫌な出来事と思っていることは、実は実体のない空(くう)だと気づくことです。智慧によって苦しみを空(くう)じることです。それにより煩悩が暴走する対象が幻だと気づければ、煩悩に振り回されることはなくなります。
このような教えと修行の実践を背景に、弘仁寺では今後さらに清浄な心を育む道場となるべく努めてまいります。
さて、本年は弘仁寺開創して125年となります。境内に開創25年の記念碑が建っておりますのでそこから丁度100年となります。125年の節目に開創の由来に立ち返り、清浄な心を実感できる霊場となるべく、いくつかの事業を計画しております。
まず、この度、ご縁があり烏枢沙摩明王の身の丈二尺三寸五分(約70センチ)の絵像(掛け軸)を弘仁寺にお迎えいたします。お披露目は約一か月後の予定です。

さらに当山で既におまつりし、おかげをいただいております女尊で即身成仏されておられる仏さま、大変浄化の力の強い多羅尊(多羅観音、ターラー尊)の絵像(掛け軸)を秋から冬ごろにかけてお迎えする予定です。
弘仁寺が皆さまにとって清浄な心を実感できる霊場となるよう、開創の際の発起人の方々の願いを成就できますように、お大師様、お不動さま、烏枢沙摩明王、多羅尊におすがりしてお参りしてまいりますので、どうぞ皆さま方も、ご信心ご参拝くださりますよう御案内申し上げます。
弘仁寺は、開山の趣旨にのっとり、あらゆる人が平等に救われる霊場をめざします。皆さまのご支援ご協力を心よりお願い申し上げます。