淡彩日記

カテゴリー: 読める法話

仏教お話会「心の中に辞書がある!?」のご案内

2023年06月13日 / 行事案内, 読める法話

令和5年7月16日(日)13時より弘仁寺で「仏教お話会」を開催しますのでご案内します。

心は言葉でできています。私たちの心の中には、真っ白なノートがあって、そこに誰かから聞いた言葉とその意味をどんどん書き留めているのです。赤ん坊の頃から、私たちは言葉の見た目(視覚)、音のトーン(聴覚)、匂い(嗅覚)、味(味覚)、肌触り(触覚)など、五感で言葉とその意味を感じ取り、メモを取り続けてきました。

大人になると語彙が増え、心の中には個々に異なるオリジナルな辞書ができます。ある人の辞書には五感を刺激するメモやイラストがたくさん書かれており、まるでカラフルでワクワクする百科事典のようです。また、別の人の辞書は、言葉とその意味が一つだけ書かれた英単語帳のような形をしているかもしれません。

そして、この辞書こそが、心に楽しみや苦しみを感じさせるのです。私たちの幸せや不幸の感覚は、この辞書の中身がどうなっているかによって大きく変わります。いうならば心の中の辞書こそが心の本体ということもできます。ですので、今回のお話会では、心の中の辞書に焦点を当て、注目していきます。

心の中の辞書は本来、常に改訂できるノートの集まりです。しかし、分厚い本や辞書、学校、親や友達、テレビ、映画、小説、論文、マンガ、アニメでおぼえた言葉の意味は、最初から固定されているように感じられるかもしれません。言葉の意味が心の中で変えていけるなんて、最初はなかなか信じられないでしょう。

他人から「正しい」と教えられた言葉の意味を心の中で変えていくのは、初めはためらわれるかもしれません。誰かから「この言葉は書き換えてはいけない」と言われたと感じる人は、心の中のノートに書いた言葉を修正するのに勇気が必要になるでしょう。

しかし、自分の心の中の辞書を書き換えること(改訂すること)は自分にしかできません。五感を使って再び体験し、心の中のノートを書き換え、心の中の辞書を改訂する勇気を持ちましょう。そうしたら、「ある言葉を聞いたら急に怒りが爆発する」といったことが無くなるはずです。

子供の頃から五感を通じて言葉を学ぶと、心の中の辞書が個々に異なるものだと信じられるようになります。その結果、相手の言っていることの意味が分からないときには、相手の心の中の辞書を読み解こうと思えるようになるでしょう。人を思いやるというのは、人の心の中の辞書を読むことなのかもしれません。そうなりますと、最初は意見が合わなくても、即座に相手が悪い人だと決めつけなくなるでしょう。相手の心の中の辞書を研究し、読み解いているうちに、相手と分かり合えるようになる可能性は残されています。

仏教では心の中のノートにどのように言葉をメモするか、そして出来上がった辞書をどう書き換えていくのかについて、何千年もの間、観察し、研究してきました。心の中の辞書の書き換え方を学ぶことは、心の中を明るく豊かにしていくためにとても良い学びとなるはずです。

ご興味のある方は、どうぞお気軽にお越し下さい。

「仏教お話会」

日時 7月16日(日)13時から16時

場所 弘仁寺 長崎市出雲1丁目17-23

参加費 3000円

嫉妬と随喜(ずいき)その1

2023年05月31日 / 読める法話

私たちはやっぱり、自分が可愛いものです。誰にでも大なり小なりそういうところがあります。そして、そのこと自体が絶対にいけないというわけではありません。嫉妬自体は、心の自然な働きの一つだからです。

人間ですから、人生のある時期、自分のことにしか興味がもてず「人が善いことをするのを喜べなかったり、人の幸せを喜べない気持ち」つまり「嫉妬」の気持ちに振り回されてどうしようもなく、そんな自分が嫌になることがあるかもしれません。

ですが、私たちは、嫉妬心が自然にあると同時に「人の善い行いを喜ぶ気持ち、幸せを喜ぶ気持ち」を育てることができます。江戸時代まではそれを「随喜(ずいき)」の気持ちと呼んで大切にしていました。弘法大師は『十住心論』巻第九にて、「喜とは随喜(他者の善行を喜ぶこと)です。他者の善をみて自分のことのように喜ぶことをいいます。あらゆる人を平等に見て、嫉妬の心を離れるからです」とおっしゃっています。

善行とは、苦しみを減らしていく行いです。苦しみが少なくなり気にならなくなった状態を楽といいます。

あなたがもし、どうしようもないほど嫉妬に振り回されていると感じるとしたら、それは心の全体像を学ぶ時期がきているのかもしれません。倶舎論という仏教の基礎学では心の中に20種類以上の苦しみを増やす心(煩悩)があると説きます。それは誰にでも自然にあるのです。最初から煩悩が全然無い人はいないのです。そして20数種の煩悩の一つでも対処されないまま放置されていると、苦しみが減らずに心の中がいつもどんよりと濁ったようになり、いつまでも清々しくなりません。本来、仏教の教えは、そうした心の苦しみ(にごり)を減らし、心を清々しく明るくするために説かれています。

そのゴール地点が般若心経の教え、般若波羅蜜多です。ですが、いきなりゴールに行くのは大変ですよね。究極的には一切がみな空(くう)だとしても、いきなり空を体得するのは簡単ではありません。「嫉妬がやめられない」等、今の悩みに切実さと実体感がある間は、それを軽くする教えを学ぶところから始めてみましょう。弘仁寺での勉強会では、心を軽くする仏教の教えを初歩的なところから一つ一つ学んでいきます。

少しずつ心のねじ曲がりを正直に(まっすぐに)していき、心の中に隠していた思いを打ち開けていくにつれて、だんだんと人の善行を喜べない気持ちは治まり、人の善行を喜べるようになっていきます。

正直なところを打ち開ければ、私たちはみんな自分勝手な生き物なのかもしれません。人生を振り返ると、苦の減らし方なんて誰も教えてくれなかったような気がしてきますし、自然と苦を育てることばかりしていたような気がします。ですが、嫉妬するのにも、いつかは疲れますし、人の幸せを喜ばないのにもエネルギーがいるので、だんだん嫉妬するのにも飽きる日が来るでしょう。そうしているうちに、(人の幸せを喜ぶ)随喜の気持ちを育ててみようか、という気分になるかもしれません。随喜の種は私たちの心の中に確かにあります。随喜の種から芽が出て茎が伸び、いつか花を咲かせ、実をつける時がくるのを楽しみに待っています。今日もお読みいただきありがとうございました。

如意宝珠に願うもの

2023年05月30日 / 読める法話

想像してみてください。この世のどこかに確かにある、あらゆる願いを叶える大きな大きな如意宝珠に私たちは何を願うのかを。自分の幸せ?それとも、家族の幸せ?はたまた、愛する人の幸せでしょうか?

 この世に確かに実在する、如意宝珠よ、宝の珠よ。願わくは、過去、現在、未来、あらゆる場所のあらゆる時間に生きる、生きとし生けるもの全てに行き渡る功徳を雨のように平等に降らせてください。そしてその功徳によって生きとし生けるもの全てが、その在り方にあった智慧(変化を受け入れる穏やかさ)と慈悲(相手の苦しみを取って楽を与えたいという慈愛の思い)を得られますように。生きとし生けるものが皆、そして、あらゆる存在が皆、今日一日、誰からも声をかけられずとも、今日一日、誰からも褒められなくとも、今日一日、ただそこにいれたことは、それは幸せだと、感じられますように。 明日もまた、いろいろあっても幸せな一日になると信じて、穏やかなひと時をすごせますように。 今日もありがとうございました。

仏教はあらゆる人のために

2023年05月11日 / 行事案内, 読める法話

5月14日13時から、弘仁寺で「仏教勉強会:心を安定させ、前向きに生きるための仏の教え」という勉強会が開催されます。受講料は3000円(資料代込み)で、どなたでも参加できます。

今回は、勉強会で使用される「阿毘達磨倶舎論図記」という図表を紹介します。この図表は、大正時代に篤学の士である大塩毒山氏が製作したもので、仏教の基礎学30巻である「倶舎論」を一つの表にまとめたものです。大塩氏は難聴のために苦労しましたが、仏教を大学で勉強し、同じ難聴の方々が仏教の教えを理解しやすくなるようにと願い、この図表を作り上げました。この図表は、仏教の宇宙観、人生観、主要教理などを一目瞭然に示すもので、全長は2メートルにも及びます。寺の住職ではなく、一般の方がこの図表を作り上げたことは、仏教が決して僧侶だけのものではなく、あらゆる人のためのものであることを証明しています。

最近は、物事を簡単かつわかりやすく伝えることが流行していますが、流行を追っている間に時間だけが過ぎ去り、基礎からじっくりと学ぶ時間がなくなってしまうことがあります。仏教の基礎学は用語が多く、慣れるまで時間がかかるかもしれませんが、たとえ10年かかっても学ぶ価値があるものです。

人生は確かに短く、そして先人の伝える教えは膨大です。私たちは焦って結果を出そうとして、応用編や実践編にばかり気を取られがちになります。それでも、「基礎ができれば完成できる」という希望を抱き、一緒に基礎からコツコツと仏教を学びませんか?

もし興味を持たれた方がいらっしゃいましたら、お気軽にお問い合わせください。

4年ぶりの長崎へんろ

長崎四国八十八ヶ所霊場、四日間の春の大巡拝が今日(4月3日)から始まりました。

(写真は今日の弘仁寺のお巡りの様子です)

毎朝8時から寺町の延命寺を出発して、夕方4時過ぎまで長崎市内各所の霊場巡拝をいたします。

四年ぶりのお巡りで、先達をさせていただくのも久しぶりです。どうなることかと緊張しておりましたが、実際に始まってみると、35人くらいで黙々と一列に歩き、1ヶ所ずつ札打ちを続けているうちに、普段の散歩や運動で歩く時とは違う、不思議に高揚した感覚になります。

お遍路さんの一人として、一心不乱に脇目も振らず、ただ何も考えず、歩くことだけに没頭する時間は、この何年もありませんでした。

そして、今日のお巡りが佳境に入り、夕方になったころ、疲れ切っているはずの足が不思議と軽くなり、ふとした時に巡拝するお遍路さんの列の中に、お大師さんの気配を感じる瞬間が訪れました。

お遍路さんとして大勢の修行者の列に混じって歩いている時に、同行二人(どうぎょうににん→お大師さまと二人連れでの修行の時間がなんとうれしいことだろうか)という言葉が、「あぁ、その通りだなぁ」としみじみと感じられるのです。

(あぁ、そうだった、私が仏道に進むか決めようと思って初めて長崎遍路に参加した時に感じた、何かから背中を押されるような、言葉にできない、ありがたい不思議な感覚はこれだったなぁと、思い出していました。)

お巡りが始まる前は、相当疲れるだろうと覚悟しておりましたが、たくさんのお遍路さん方の元気なお姿に背中を押してもらって、明日も朝からお遍路さんのお手伝いを頑張れそうです。

4月6日まで、長崎市内でお遍路さんの姿を見かけた時には、70年続く長崎遍路、長崎のお遍路さんたちの歴史が今も続いておりますことに思いを馳せていただけましたら幸いです。

出来る限りのことを尽くすと、清々しい心が帰ってくる

2023年03月28日 / 読める法話

先日、有る方のご法事に出仕し、お参りをさせていただきました。その日は施主様から心のこもった丁寧なおもてなしを頂き感謝しております。ご家族の皆様が、「このような法事の機会が持てて、故人も喜んでいることと思います」と悲しみの中にも晴れやかにお話して下さいました。ご葬儀の際の憔悴しきっておられたご家族の様子、ご家族の心の悲しみの深さを憶えていたので、それでも出来る限りを尽くしたご供養をなされるうちに、こんなにもご家族の表情が清々しいものになるのかと感じ入るものがありました。

私たちは、出来る限りのことをしようと心底思い、出来る限りのことを準備して、出来る限りのことを無事出来たと思える日が来たとしたならば幸いです。誰になんと言われようとも、出来て良かったと思えるし、心残りが無くなります。たとえ身体的な苦しみが残っていたとしても、心残りが無くなるだけで、生きることは相当楽になります。

逆に、出来る限りを尽くさず、出来る範囲で簡単に済ませようとするときほど、不思議なことに、何か心残りが生まれるようです。最初から出来る限りを目指さないことで、たしかに体力・精神力の負担や、時間の負担や経済的な負担は多少減るかもしれません。ですが、たとえそういった面で余裕を持ってできたとしても、いつまでも心残りに悩まされ、生きることが相当苦しくなります。

そういえば最近、「人に迷惑をかけたくない」という言葉がよく使われます。この言葉は、人に対して、身体的、精神的、経済的、時間的な負担をかけたくないという意味で使われているようです。ですが、人は全力を出し尽くせたと思えた時にこそ、心の爽やかさ(清浄さ)を感じることが出来る、不思議な生き物です。例えば、日本チームの優勝によって幕を閉じたWBC2023年大会でも、大谷選手を始めとした多くの代表選手の全力を尽くしたプレーを見ているうちに、私たちもいつの間にか心をつかまれ、心を動かされて大きな喜びを感じました。やはり、精神的な喜びと満足を得るには、出来る限りのことを尽くすことが欠かせません。ずっと何かを忖度(そんたく)し、出せる力を抑え手加減しているだけでは、生きていてよかったと、生きる意味を感じられるほどの十分な満足と喜びを得ることは決して出来ないのではないでしょうか。

人に迷惑をかけないという言葉が意味するのは、人に心残りを残させないということのはずです。そうであるならば、出来る限り精一杯のことをしようと心から思い、それを人に話して、実際に少しずつでも準備をしておくことが大切です。それこそが、人に迷惑をかけないことになるのかもしれません。

仏教の教えは精密な構造を持っていて、時間をかけて丹念に学べば、心の苦しみがだんだんと軽くなるようになっています。どうか皆様の心の苦しみが軽くなりますように、皆様の心残りがなくなりますようにと願っています。そのための手がかりになる話を集めてお伝えできるよう、これからもこつこつと準備を重ねてまいります。本日もお読みいただきありがとうございました。

信じることを基礎にしたら、改善は持続する

2023年03月23日 / 読める法話

信じて待つ。信じて変える。信じて動く。信じて受け止める。そして、出た結果が、良い結果であろうと、残念な結果であろうと、信じて受け止めたら、落ち込みも浮つきもない。淡々と次の改善のサイクルが始まる。

逆に、疑って待ち、疑って変え、疑って動き、疑って受け止めたら、良い結果であろうと残念な結果であろうと、浮ついた心になったり、落ち込んだりすることになる。結果だけを求めて、先を行く人に追いつこうとしても、どこかで息切れして憔悴して、まったく動けなくなってしまう。

(注:ここから仏教の解説がしばらくあるので、ここで一呼吸おいて、最後の段落に飛んでもらって大丈夫です。)

仏教ではこの世に二種類の存在があるという。それは、有為法(ういほう)と無為法(むいほう)だ。有為法は刹那(75分の1秒)ごとに生まれ、反応し、変化し、消滅する。その分類は72種類ある。(善心、悪心、中立な心などが含まれる。細かく分けるとさらに長くなるので、その詳細については、これから別の項で書いていく)逆に変化も反応も生まれも滅しもしないものを無為法(むいほう)という。無為法には3種類ある。その一つを択滅(ちゃくめつ)といい、それを普段は涅槃(ねはん、悟りの境地)と呼ぶ。有為法と無為法とは互いに妨げることがない。

有為法の中には善行(ぜんぎょう)と悪業(あくごう)がある。善行とは楽に繋がる行為で悪業とは苦に繋がる行為だ。

善行はさらに二つに分けられる。楽な結果を生むが輪廻は継続させる有漏(うろ)の善行と、最終的に輪廻から離れ悟りの境地に導く無漏(むろ)の善行だ。

無漏の善行とは、苦も楽も願わず、只々煩悩を滅しつくすということである。それは無為法の世界に導く善行であるとはいえ、有為法の範囲に含まれる行為になる。有為法と無為法は妨げ合わない(互いに原因と結果にならない)はずなのに、なぜ無漏の善行という有為法により無為法である択滅(ちゃくめつ、涅槃)が生じるのかという疑問を持つ人がいるかもしれない。実は、煩悩を滅し尽くしたときにだけ「ある特別な有為法(離繋得りけとく、と呼ぶ)」が生まれ、それが有為法と無為法の間を橋渡しする鍵になるというのだ。離繋得(りけとく)が生まれると、自動的に択滅(ちゃくめつ、涅槃)に入る。そこに因果関係はないという。離繋得(りけとく)を得ると択滅(ちゃくめつ、涅槃)が生じるので、択滅を離繋果(りけか)ともいう。

つまり仏教の修行では、択滅(涅槃、悟りの境地)という無為法を直接求めることはしない。無為法は有為法を原因としないからだ。修行では、あくまで離繋得という有為法を得ることを目的にする。解脱するために頑張っても解脱そのものは得られないが、離繋得(りけとく)を得るために頑張ることはできる。離繋得がえられれば、何の因果関係もなく自然と涅槃に入る。

(注:長く話してきましたが、まとめて言うと仏教の方法論としては再現できる方法がすでに確立していて、矛盾はないようになっているので、善いことを行い、悪いことをしないと信じて行えば、いつの間にか涅槃に赴いているということです。長文お付き合いいただき、ありがとうございます。ここから最後の段落です。上の注から飛んで来られた方は、ここからどうぞ)

信じるというのは、一呼吸おくということなのかもしれない。すぐに反応しないでいいと、信じることなのかもしれない。疑うと、すぐ反応するし、一呼吸おけない。

自分の身心(五感とこころ)の反応を信じてあげよう。身心が疲れているなとおもったら、それを受け止め、立ち止まろう。身心は回復する間をもらいさえすれば、回復すると、信じてあげよう。

お読みいただきありがとうございました。本日もどうぞお健やかに、心穏やかにお過ごしください。

ありがたいことに、詳しすぎる話でも、熱心に聞いてくれる人は、聞いてくれる

2023年03月20日 / 日々のできごと, 読める法話

3月19日、諫早で無事お話会が終わりました。

心の地図を説明しているところ

「今度、お話会しましょう」と企画が持ち上がったのが2月のことだったので、約一か月の準備期間でした。

「古事記の前の話をしよう」となったので、最初は大日如来と、大神宮の契約の話をしようくらいに軽く考えていたのです。

ですが歴史の資料をたくさん集めて話をしようとすると、聞いている方の心に悲しみが募るかもしれません。せっかく聞いても暗くなる話で終わるのは残念です。

「過去の歴史は分かりました。では、今を生きる私たちはどうしたらいいのですか」という感想をいただくかもしれません。

そういう時、私は歴史学者ではなく僧侶なので、仏教の中で何とか安心してもらえる方法がないかと頭を捻りました。

そこで、今回初めて「倶舎論(くしゃろん)」という仏教の教えを詳細にまとめた本から「心の中の地図」をまとめて資料にして、皆さんと一緒に読んでみることにしました。

『仏教は宇宙をどう見たか―アビダルマ仏教の科学的世界観』『仏教の思想 2 存在の分析<アビダルマ> 』『ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ』という本を参考にしながら、資料作成に3日かかり、印刷しようとしてビックリしました。A4サイズ3枚に分割して印刷しても字が小さすぎて読めません。

仕方ないのでキンコーズに行ってA3サイズ2枚に分割して印刷し、A2サイズで皆様にお配りすることにしました。

実際の資料は下のファイルです。お寺でもこの資料の中身についてお話しできますので、興味がある方はご連絡下さい。

https://www.dropbox.com/s/4c5pijouygjv5s1/%E4%B8%83%E5%8D%81%E4%BA%94%E6%B3%95%E4%B8%80%E8%A6%A7.pdf?dl=0

当日は古事記ができた頃の神話と、元寇の時代に神話がリニューアルした話をした後、心の地図の説明に入りました。75もある心の中身を一つ一つ読み上げるだけでも1時間くらいかかります。参加した方にとって初めて聞く言葉がたくさんあるはずですので、話すこちらも分かりにくくないかなと心配になります。ドキドキしながら一生懸命話します。

開始から2時間経過した後も、みなさんに質問を随時していただきながら納得いくまで聞いていただきました。参加していただいた皆様の興味関心のレベルの高さと熱意と忍耐に、こちらも心を励まされながら話をすることができました。本当に頭が下がり、有難いと思える時間でした。

次回の機会に向けて今日『全訳 ダライ・ラマ世 倶舎論註『解脱道解明』』を注文し、早速資料を手直しして行こうとした時、斎藤明先生によります、仏教用語の現代語化についてまとめられたホームページに辿り着きました。

五位七十五法関連用語の定義的用例集」(レイアウトの関係でパソコンで開くのをおすすめします)

http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~b_kosha/html/index_75dharma.html

こちらのホームページを参照させていただき、資料を今後さらに改訂してまいります。

今思うと、「法を説くことを惜しまない」という戒律があるにもかかわらず、「最近は、やさしく便利で早く分かりやすいものが求められがちだ」という風潮に流されて、詳しい話をすることを諦めてしまっていたように思います。

今回、どれほど詳細であっても、難解であっても、聞いてくださる方は必ずいらっしゃると思えるようになりました。

2時間以上も熱心に話を聞いていただいて、安堵しています。

そして今後、般若心経の話や、唯識、中観、法華経、華厳、密教の話や、弘法大師様の話など、少しずつでも資料をまとめて、聞いてくださる方と出逢いながら、歩みを進めていくことができましたらと密かに願っています。どうぞお題を出していただきますと、励みになります。

本日もお付き合いいただき、ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。

淡々と、何も考えずに、ゆっくりと、今日もうちにいて、茶碗を洗う。

2023年03月15日 / 読める法話

この世には、変化するもの(有為)と、変化するものの影響を受けないもの(無為)と、変化のプロセス、歴史を観察し保管するもの(識)の3つがあると考えてみましょう。

変化するものは地水火風の四つの性質です。

とても安定していて、堅固な地の性質が、湿潤で柔らかくする水の性質を受けとって、火の性質によって温められて行くうちに、風の性質のようにどんどん動き、軽やかになっていく性質を持っていく、というように変化が続いていきます。

一方で、変化するものの影響を受けないのが無為(むい)です。変化の影響を受けないものがあるのだ、という話を今は、そういうこともあるのか、位に思っていただいて読み進めて下さい。

例えば、全ての有為の変化を受け入れる居場所となる虚空(こくう)が無為の一つです。

四苦八苦の影響を受けない涅槃も、無為の一つです。

そして、ここからが不思議な所なのですが、普通は相互に影響を及ぼしあうことのないはずの、有為と無為の間に関係性を持たせる何かがどうもあるらしいのです。それを菩提心と呼ぶことにします。混じり合うはずのない有為と無為の両者が混じり合い、溶け合い、相互に働き合うことは、菩提心の中で起こります。

ですが、両者の融合に何らかの善悪の結果を求めると何かの業が生まれてしまいます。そこが繊細なところです。

通常反応しないはずのもの同士が、混ざり合わないはずのものが、相互にコミュニケーションをはじめるとき、何かが起こり、あっという間に、気がつかない内に、神話が再び生まれます。刹那の間に世界は書き換えられ、そしてまるで何事もなかったかのように世の中は再び動き始めます。

何もせず、何も思わず、何事もなく、ただ息を吐いて吸っての繰り返しのように、家事や仕事を淡々と回していく。そうすると、思わぬ縁が動き出し、不思議とそうなるようになっていきます。

家の事(であろうと何であろうと)は、何も善悪を意図せずに無心に進めていくと、無為への修行と重なっていくようです。

たんたんと、淡々と。

変えられないと思うとうまく瞑想できない(可能性を信じる1)

2023年03月14日 / 読める法話

瞑想を進めたいのに進まないと苦しいときは、どこか自分の中に「変えられないところがある」と思っていないか振り返ってみるのもいいかもしれません。そうすると、自分の中のこだわりが見つかってきたりします。「変えられない、もともと決まっていて動かせない」と思いながら瞑想をしても、瞑想は進展するかというと難しい気がします。瞑想をする前の感覚では動かせそうに無いところも、瞑想をしている中で心が見つめ直されていく中で、瞑想する前とは違った感覚になり、動かしてもいいかもしれない、と納得できるようになる時が、ある時突然やってきます。

心の中を見渡したとき、今はただの掴みどころの無い乾き切った砂のような感覚であっても、瞑想に心の汗をかき、心の涙を流しているうちに、砂に一滴一滴の湿り気がもたらされていきます。そして、やがて砂につかみどころが生まれ、いつしかさざれ石となり、そして長い年月の果てにはついに大きな岩となるように変化して行くかもしれません。いつそうなるかは気にせず、早く変化させたいと焦らず、その変化を楽しみに待ちながら、淡々と続けようと思えたら、ありがたいですね。きっと何かが進み始めます。

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