淡彩日記
出来る限りのことを尽くすと、清々しい心が帰ってくる
先日、有る方のご法事に出仕し、お参りをさせていただきました。その日は施主様から心のこもった丁寧なおもてなしを頂き感謝しております。ご家族の皆様が、「このような法事の機会が持てて、故人も喜んでいることと思います」と悲しみの中にも晴れやかにお話して下さいました。ご葬儀の際の憔悴しきっておられたご家族の様子、ご家族の心の悲しみの深さを憶えていたので、それでも出来る限りを尽くしたご供養をなされるうちに、こんなにもご家族の表情が清々しいものになるのかと感じ入るものがありました。
私たちは、出来る限りのことをしようと心底思い、出来る限りのことを準備して、出来る限りのことを無事出来たと思える日が来たとしたならば幸いです。誰になんと言われようとも、出来て良かったと思えるし、心残りが無くなります。たとえ身体的な苦しみが残っていたとしても、心残りが無くなるだけで、生きることは相当楽になります。
逆に、出来る限りを尽くさず、出来る範囲で簡単に済ませようとするときほど、不思議なことに、何か心残りが生まれるようです。最初から出来る限りを目指さないことで、たしかに体力・精神力の負担や、時間の負担や経済的な負担は多少減るかもしれません。ですが、たとえそういった面で余裕を持ってできたとしても、いつまでも心残りに悩まされ、生きることが相当苦しくなります。
そういえば最近、「人に迷惑をかけたくない」という言葉がよく使われます。この言葉は、人に対して、身体的、精神的、経済的、時間的な負担をかけたくないという意味で使われているようです。ですが、人は全力を出し尽くせたと思えた時にこそ、心の爽やかさ(清浄さ)を感じることが出来る、不思議な生き物です。例えば、日本チームの優勝によって幕を閉じたWBC2023年大会でも、大谷選手を始めとした多くの代表選手の全力を尽くしたプレーを見ているうちに、私たちもいつの間にか心をつかまれ、心を動かされて大きな喜びを感じました。やはり、精神的な喜びと満足を得るには、出来る限りのことを尽くすことが欠かせません。ずっと何かを忖度(そんたく)し、出せる力を抑え手加減しているだけでは、生きていてよかったと、生きる意味を感じられるほどの十分な満足と喜びを得ることは決して出来ないのではないでしょうか。
人に迷惑をかけないという言葉が意味するのは、人に心残りを残させないということのはずです。そうであるならば、出来る限り精一杯のことをしようと心から思い、それを人に話して、実際に少しずつでも準備をしておくことが大切です。それこそが、人に迷惑をかけないことになるのかもしれません。
仏教の教えは精密な構造を持っていて、時間をかけて丹念に学べば、心の苦しみがだんだんと軽くなるようになっています。どうか皆様の心の苦しみが軽くなりますように、皆様の心残りがなくなりますようにと願っています。そのための手がかりになる話を集めてお伝えできるよう、これからもこつこつと準備を重ねてまいります。本日もお読みいただきありがとうございました。
信じることを基礎にしたら、改善は持続する
信じて待つ。信じて変える。信じて動く。信じて受け止める。そして、出た結果が、良い結果であろうと、残念な結果であろうと、信じて受け止めたら、落ち込みも浮つきもない。淡々と次の改善のサイクルが始まる。
逆に、疑って待ち、疑って変え、疑って動き、疑って受け止めたら、良い結果であろうと残念な結果であろうと、浮ついた心になったり、落ち込んだりすることになる。結果だけを求めて、先を行く人に追いつこうとしても、どこかで息切れして憔悴して、まったく動けなくなってしまう。
(注:ここから仏教の解説がしばらくあるので、ここで一呼吸おいて、最後の段落に飛んでもらって大丈夫です。)
仏教ではこの世に二種類の存在があるという。それは、有為法(ういほう)と無為法(むいほう)だ。有為法は刹那(75分の1秒)ごとに生まれ、反応し、変化し、消滅する。その分類は72種類ある。(善心、悪心、中立な心などが含まれる。細かく分けるとさらに長くなるので、その詳細については、これから別の項で書いていく)逆に変化も反応も生まれも滅しもしないものを無為法(むいほう)という。無為法には3種類ある。その一つを択滅(ちゃくめつ)といい、それを普段は涅槃(ねはん、悟りの境地)と呼ぶ。有為法と無為法とは互いに妨げることがない。
有為法の中には善行(ぜんぎょう)と悪業(あくごう)がある。善行とは楽に繋がる行為で悪業とは苦に繋がる行為だ。
善行はさらに二つに分けられる。楽な結果を生むが輪廻は継続させる有漏(うろ)の善行と、最終的に輪廻から離れ悟りの境地に導く無漏(むろ)の善行だ。
無漏の善行とは、苦も楽も願わず、只々煩悩を滅しつくすということである。それは無為法の世界に導く善行であるとはいえ、有為法の範囲に含まれる行為になる。有為法と無為法は妨げ合わない(互いに原因と結果にならない)はずなのに、なぜ無漏の善行という有為法により無為法である択滅(ちゃくめつ、涅槃)が生じるのかという疑問を持つ人がいるかもしれない。実は、煩悩を滅し尽くしたときにだけ「ある特別な有為法(離繋得りけとく、と呼ぶ)」が生まれ、それが有為法と無為法の間を橋渡しする鍵になるというのだ。離繋得(りけとく)が生まれると、自動的に択滅(ちゃくめつ、涅槃)に入る。そこに因果関係はないという。離繋得(りけとく)を得ると択滅(ちゃくめつ、涅槃)が生じるので、択滅を離繋果(りけか)ともいう。
つまり仏教の修行では、択滅(涅槃、悟りの境地)という無為法を直接求めることはしない。無為法は有為法を原因としないからだ。修行では、あくまで離繋得という有為法を得ることを目的にする。解脱するために頑張っても解脱そのものは得られないが、離繋得(りけとく)を得るために頑張ることはできる。離繋得がえられれば、何の因果関係もなく自然と涅槃に入る。
(注:長く話してきましたが、まとめて言うと仏教の方法論としては再現できる方法がすでに確立していて、矛盾はないようになっているので、善いことを行い、悪いことをしないと信じて行えば、いつの間にか涅槃に赴いているということです。長文お付き合いいただき、ありがとうございます。ここから最後の段落です。上の注から飛んで来られた方は、ここからどうぞ)
信じるというのは、一呼吸おくということなのかもしれない。すぐに反応しないでいいと、信じることなのかもしれない。疑うと、すぐ反応するし、一呼吸おけない。
自分の身心(五感とこころ)の反応を信じてあげよう。身心が疲れているなとおもったら、それを受け止め、立ち止まろう。身心は回復する間をもらいさえすれば、回復すると、信じてあげよう。
お読みいただきありがとうございました。本日もどうぞお健やかに、心穏やかにお過ごしください。
ありがたいことに、詳しすぎる話でも、熱心に聞いてくれる人は、聞いてくれる
3月19日、諫早で無事お話会が終わりました。
「今度、お話会しましょう」と企画が持ち上がったのが2月のことだったので、約一か月の準備期間でした。
「古事記の前の話をしよう」となったので、最初は大日如来と、大神宮の契約の話をしようくらいに軽く考えていたのです。
ですが歴史の資料をたくさん集めて話をしようとすると、聞いている方の心に悲しみが募るかもしれません。せっかく聞いても暗くなる話で終わるのは残念です。
「過去の歴史は分かりました。では、今を生きる私たちはどうしたらいいのですか」という感想をいただくかもしれません。
そういう時、私は歴史学者ではなく僧侶なので、仏教の中で何とか安心してもらえる方法がないかと頭を捻りました。
そこで、今回初めて「倶舎論(くしゃろん)」という仏教の教えを詳細にまとめた本から「心の中の地図」をまとめて資料にして、皆さんと一緒に読んでみることにしました。
『仏教は宇宙をどう見たか―アビダルマ仏教の科学的世界観』『仏教の思想 2 存在の分析<アビダルマ> 』『ダライ・ラマの仏教哲学講義―苦しみから菩提へ』という本を参考にしながら、資料作成に3日かかり、印刷しようとしてビックリしました。A4サイズ3枚に分割して印刷しても字が小さすぎて読めません。
仕方ないのでキンコーズに行ってA3サイズ2枚に分割して印刷し、A2サイズで皆様にお配りすることにしました。
実際の資料は下のファイルです。お寺でもこの資料の中身についてお話しできますので、興味がある方はご連絡下さい。
当日は古事記ができた頃の神話と、元寇の時代に神話がリニューアルした話をした後、心の地図の説明に入りました。75もある心の中身を一つ一つ読み上げるだけでも1時間くらいかかります。参加した方にとって初めて聞く言葉がたくさんあるはずですので、話すこちらも分かりにくくないかなと心配になります。ドキドキしながら一生懸命話します。
開始から2時間経過した後も、みなさんに質問を随時していただきながら納得いくまで聞いていただきました。参加していただいた皆様の興味関心のレベルの高さと熱意と忍耐に、こちらも心を励まされながら話をすることができました。本当に頭が下がり、有難いと思える時間でした。
次回の機会に向けて今日『全訳 ダライ・ラマ1 世 倶舎論註『解脱道解明』』を注文し、早速資料を手直しして行こうとした時、斎藤明先生によります、仏教用語の現代語化についてまとめられたホームページに辿り着きました。
「五位七十五法関連用語の定義的用例集」(レイアウトの関係でパソコンで開くのをおすすめします)
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~b_kosha/html/index_75dharma.html
こちらのホームページを参照させていただき、資料を今後さらに改訂してまいります。
今思うと、「法を説くことを惜しまない」という戒律があるにもかかわらず、「最近は、やさしく便利で早く分かりやすいものが求められがちだ」という風潮に流されて、詳しい話をすることを諦めてしまっていたように思います。
今回、どれほど詳細であっても、難解であっても、聞いてくださる方は必ずいらっしゃると思えるようになりました。
2時間以上も熱心に話を聞いていただいて、安堵しています。
そして今後、般若心経の話や、唯識、中観、法華経、華厳、密教の話や、弘法大師様の話など、少しずつでも資料をまとめて、聞いてくださる方と出逢いながら、歩みを進めていくことができましたらと密かに願っています。どうぞお題を出していただきますと、励みになります。
本日もお付き合いいただき、ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。
夜のお参り
当山は、いつでもお電話、ライン、メールなどでのお問い合わせが可能です。
お参りをお願いしますとのお電話がありましたら、お寺におります時は、朝でも夜でも受け付けております。
本日は鹿児島よりお越しの方と夜にお参りをいたします。静かなお堂の中で、読経供養させていただきます。願わくは、お参りに来られた方も、そうでない方も共に、心が解きほぐされて、穏やかにお過ごしいただけますように。
淡々と、何も考えずに、ゆっくりと、今日もうちにいて、茶碗を洗う。
この世には、変化するもの(有為)と、変化するものの影響を受けないもの(無為)と、変化のプロセス、歴史を観察し保管するもの(識)の3つがあると考えてみましょう。
変化するものは地水火風の四つの性質です。
とても安定していて、堅固な地の性質が、湿潤で柔らかくする水の性質を受けとって、火の性質によって温められて行くうちに、風の性質のようにどんどん動き、軽やかになっていく性質を持っていく、というように変化が続いていきます。
一方で、変化するものの影響を受けないのが無為(むい)です。変化の影響を受けないものがあるのだ、という話を今は、そういうこともあるのか、位に思っていただいて読み進めて下さい。
例えば、全ての有為の変化を受け入れる居場所となる虚空(こくう)が無為の一つです。
四苦八苦の影響を受けない涅槃も、無為の一つです。
そして、ここからが不思議な所なのですが、普通は相互に影響を及ぼしあうことのないはずの、有為と無為の間に関係性を持たせる何かがどうもあるらしいのです。それを菩提心と呼ぶことにします。混じり合うはずのない有為と無為の両者が混じり合い、溶け合い、相互に働き合うことは、菩提心の中で起こります。
ですが、両者の融合に何らかの善悪の結果を求めると何かの業が生まれてしまいます。そこが繊細なところです。
通常反応しないはずのもの同士が、混ざり合わないはずのものが、相互にコミュニケーションをはじめるとき、何かが起こり、あっという間に、気がつかない内に、神話が再び生まれます。刹那の間に世界は書き換えられ、そしてまるで何事もなかったかのように世の中は再び動き始めます。
何もせず、何も思わず、何事もなく、ただ息を吐いて吸っての繰り返しのように、家事や仕事を淡々と回していく。そうすると、思わぬ縁が動き出し、不思議とそうなるようになっていきます。
家の事(であろうと何であろうと)は、何も善悪を意図せずに無心に進めていくと、無為への修行と重なっていくようです。
たんたんと、淡々と。
変えられないと思うとうまく瞑想できない(可能性を信じる1)
瞑想を進めたいのに進まないと苦しいときは、どこか自分の中に「変えられないところがある」と思っていないか振り返ってみるのもいいかもしれません。そうすると、自分の中のこだわりが見つかってきたりします。「変えられない、もともと決まっていて動かせない」と思いながら瞑想をしても、瞑想は進展するかというと難しい気がします。瞑想をする前の感覚では動かせそうに無いところも、瞑想をしている中で心が見つめ直されていく中で、瞑想する前とは違った感覚になり、動かしてもいいかもしれない、と納得できるようになる時が、ある時突然やってきます。
心の中を見渡したとき、今はただの掴みどころの無い乾き切った砂のような感覚であっても、瞑想に心の汗をかき、心の涙を流しているうちに、砂に一滴一滴の湿り気がもたらされていきます。そして、やがて砂につかみどころが生まれ、いつしかさざれ石となり、そして長い年月の果てにはついに大きな岩となるように変化して行くかもしれません。いつそうなるかは気にせず、早く変化させたいと焦らず、その変化を楽しみに待ちながら、淡々と続けようと思えたら、ありがたいですね。きっと何かが進み始めます。
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ほとけ心を抱きしめる
心には居場所が必要です。弘法大師空海さまも若かりしころ、心の居場所を求めて修行に励まれました。心の拠り所がない苦しみ、心の置き所がない寂しさを誰よりも理解していらっしゃるのが弘法大師さまです。
あなたの心の本当の置き所は、誰にも妨げることのできない虚空の世界にあります。それを仏教では真如といったり、涅槃といったりします。
そこにあなたの一番大切な心を置けば、どんな天魔もあなたの心を傷つけることはできません。全ての仏さまは心を涅槃の世界においています。
諸行無常というからといって、あなたの心の一番大切なところまで、苦しみの海の中にとどまらせることはないのです。仏さまが苦しみの海にお姿を表すとしても、そのお姿は本体ではなく分身であって、仏さまの心の本体はあくまで涅槃の世界にとどまっていらっしゃいます。だから仏さまはどんな苦しみの世界に現れても、苦しみに沈むことはありません。
あなたが、この世での苦しみの只中にあるときこそ、誰にも傷つけられることのない、真如の世界、言い換えれば涅槃の世界とのつながりを忘れないで下さい。仏さまのぬくもりを受け取って、あなたの心にぬくもりを当ててください。あなたの心がしっかりと温まるまで、それを離さないでください。
私たちは、仏さまに心を込めてお参りした結果、仏さまから温かい心をいただいたとしても、自分の心がしっかりと温もりきる前に、慌てて仏さまにそれをお返ししてしまいがちです。
私たちが仏さまからいただいたぬくもりを返すのは、自分の心を素直に仏さまの世界に置けるようになったとき、言い換えれば心を涅槃の世界に置けるようになった時でいいのです。
只々、ありがたい、ありがたいと、心を込めて、心をあたためてください。
体も心も冷え切っている時は、まずは湯たんぽをあたためて、それをじっと抱きしめてもいいでしょう。体が温まるにつれて、心も温まりやすくなるはずです。
心ゆくまで、自分の心を大切に温めていいのです。心を真に安らげる居場所は、仏さまの世界に必ずあるのですから。
令和4年もちつき大会のお知らせ
今年も一年のしめくくりに、もちつき大会を開催します。
ちんどんかわち家さんと楽しくもちつきをしましょう。
かわち家さんとつくモチは、機械でついた普通のもちとは味が違います。最高の仕上がりになるまでつきあげた餅は、口の中でうまみが広がり、正に絶品です!
こころも体もぽかぽかになって、大人も子どもも楽しめます!
1人でも、親子でも、親戚と一緒に、友だち同士で年齢性別関係なく、どなたでも参加できます!
当日飛び入り参加大歓迎です!どうぞお越し下さい!
辻幹雄11弦ギターコンサート(11/6 14:00)のお知らせ
日本の11弦ギターの第一人者として、国内外で演奏活動を行っていらっしゃる辻幹雄さんのコンサートが弘仁寺で開催されます。
お寺の本堂の中に、11弦ギターのやわらかなしらべが広がり、耳を傾けているうちに、疲れた心がいつの間にか解きほぐされていくでしょう。リラックスした雰囲気で楽しんでいただけたらと思います。
仏教は、心の中にあるこだわりに気づき、心をのびのびと解き放つ教えです。今回は、音楽を通して、仏様の慈悲の世界を感じていただきたいと思います。暖かい音色に身を委ねる時間をお楽しみください。
お問合せは弘仁寺まで電話095-823-7759又は、support@koninji.comまでメッセージをお願いします。当日申し込みも可能です。
日時 令和4年11月6日 日曜日 開場午後1時半 開演午後2時
場所 弘仁寺
チケット 3000円
お問合せ 弘仁寺095-823-7759
どうぞ、この機会にお気軽にお越しください。
秋のお彼岸 心を穏やかに
去る9月23日10時から弘仁寺にて彼岸法会がありました。 供養の申し込みいただいた方の塔婆を書いて、本堂で読み上げ供養を致しております。
仏教の修行の中にはたくさんの側面がありますが、その中にはまず自分の人生に意義を見出し、次に人を幸せにすることに興味を持つというものがあります。 自分の行動と思いを観察しているうちに、自分がなぜそう感じるのか、自分でも気づいていなかったことが分かるようなるにつれて、次第に心の余裕が持てるようになっていきます。
そうすると、次に他の人の考え方や、感じ方に興味がもてるようになり、人が苦しんでいるのであればその苦しみを取りたくなり、楽を与えたくなっていくようです。
空に雲が垂れ込めていてもいつか晴れるように、変わらないものはありません。今の自己の苦しみも、よく考えて観察しているうちに段々と和らいでまいります。意味が分からないうちは心の重荷でも、意味が分かって納得がいけば心は軽くなり、晴れやかで穏やかな心持ちで暮らしていけるはずです。
秋の涼しく穏やかな空の下、皆様お一人お一人が自心を見つめて、安心を見出せますよう祈念しております。