淡彩日記
手作りの冊子(ZINE)を作って7月20日から8月18日までココウォークの本屋さんで販売することになりました。
ZINE(ジン)というのは個人やグループで作る少部数印刷の冊子のことです。内容もページもサイズも全て自由、作り手の好きに作られるからとても個性的です。住職も平成30年にできたチョージンという長崎のZINEグループに入れてもらって、去年からZINEを作っています。
今年は7月20日から8月18日までココウォーク5階TSUTAYA BOOKSTOREで「チョージン2019」というグループの作品展に参加します。
今年の3月から7月にかけて空いた時間にコツコツと書いていた原稿がまとまって、一冊の小さな手作りの冊子になりました。
タイトルは「ことばのひみつ ひみつのことば 2」です。
36ページの読みものです。
文は住職が書いて、題字と絵は坊守さんの作品です。
なんでZINEを書いたかと言うと……
「悟りを開く」とか「煩悩をなくす」と聞くと何だかとても難しい話に思われがちな仏教なんですが、お経を細かく読んでいると、生きている私たちの心が元気になるために、仏教はあるんだなぁと分かってきました。
そうして分かったことを、法話会で1時間話しただけではなかなか聞いている人に納得していただくのが難しいので、できるだけ分かりやすく順番に書こうと思って今回のZINEをつくりました。
仏教の空(くう)の教えは、元々はこころの奥底にある「恥ずかしさから、身動き取れなくなった自分」を立ち直らせるためにあるみたいなんですね。たくさんあるお経の中から、励ましになりそうなことばが書いてあるお経を紹介しながら、自分の言葉で柔らかく伝えられたらなぁと思って作りました。
作っている時のエピソードとしては……
まず、締め切りに間に合うのか?が一番心配なところでした。材料自体はコツコツと書き溜めているのですが、ただ書き溜めるだけでは、いつまでも中身に納得出来ません。
なので、締め切り間近、「今日必ず終わらせる。今日で書き上げる!」という気持ちになるのが大変でした。
今回、頑張るきっかけとなった出来事があとがきに書いてあります。ギリギリまで結論が決まりませんでしたが、その出来事があってジンの結論がでました。そこから一気に書き上げました。一番集中していたのは子供が寝た後の夜10時から朝4時くらいまでで、時間の経つをのを忘れるほど充実感がありました。それに、今回トークイベントにでないといけないというプレッシャーも書くための助けになりました。締め切りがあると頑張れますよね。
読んでもらいたいポイントとしては……
去年作らせてもらった「ことばのひみつひみつのことば1」では、「こころの中にある何かに気づく」がテーマでした。
今回の2では、こころの中の探求をさらに深めて、「こころの奥底に隠れている恥ずかしさと向き合う」がテーマです。
どこから読んでもらっても大丈夫ですが、それぞれのパートがお互いに補完しあってます。
今回、原稿の一部(6ページ分)公開します。
生きる中で悲しみと痛みを感じていらっしゃる皆さまへ、少しでもお役に立てましたら、幸いです。
ご入用の方はお問い合わせ下さい。(500円です。)
上の画像を押すとページが選択できます。拡大縮小もできます。
計画開始から、僅か2ヶ月で、納骨壇が無事納まりました。
令和元年6月24日、涼やかな風が吹く長崎の丘の上で、納骨堂への搬入がありました。令和元年5月1日の計画スタートから2ヶ月…ついに、この日がやってきたのです。当初は9月ごろの完成と思われていましたが、関係する皆さまのご尽力により、予想を遥かに上回る早さに驚かされます。ありがたいことです。
今回、新規設置される仏壇型納骨壇は36基です。
高野山奥の院にかかる、御廟の橋板が36枚で、全体を1枚と数えて金剛界曼荼羅37尊を表すことから、36は高野山では特別な数字です。
平和を祈る長崎の丘の上に、曼荼羅の仏さまに見守られながら、とこしえに安らう場所が出来ました。後は、外壁、屋根瓦の塗装、漆喰の塗り直しなどを経ていよいよ完成となります。令和元年の5月1日から始まったこの計画は、わずか2ヶ月で一つの形となりました。個人の力を越えた、不思議なはたらきに助けられているようです。関係する皆さまのご尽力のおかげです。ありがとうございます。
現在弘仁寺納骨堂「やすらぎ地蔵堂」では新規加入者の申込み受付中です。既に申込みが始まっておりますので、納骨壇をお考えの方は、どうぞお問い合わせ下さい。
供養はおいしい。
ご飯や果物、花といったお供えものと、お水をよき場所にお供えして、ローソクとお香を焚いて、座について、般若心経をあげます。
心の中では、空の世界に仮に結ばれた縁の儚さを懐かしみ、亡き人と私との来し方と行く末を幻のように感じつつ、それでも、今目の前にある愛おしい縁の和合を心ゆくまで味わう。
それが供養の醍醐味です。知恵と慈悲の出会いと別れ、離れていても想い合う時間……
供養は、心のごちそうなのかもしれません。
供養の味わいの豊穣さ、奥深さを一度味わうと、なぜ人類が手を合わせてきたのか分かります。まだ供養がよく分からないという方は、人任せにせず、自分で供養の醍醐味、味わってみてくださいね。
弘仁寺webページの目次
弘仁寺へのお問い合わせは、電話095-823-7759または、お問い合わせからメッセージを送ってください。
トップページ…トップページ中程に開催予定の行事案内が掲載されます。
弘仁寺について…住職紹介、弘仁寺の歴史
淡彩日記…ブログ(納骨堂案内や、行事詳細案内はこちら)
弔う…葬儀受付、法事受付、水子供養、お参りの作法について、お布施について
てら活…護摩、瞑想、写経、法話の案内
寺子屋「象浄会」…宗派を問わず誰もが参加できる寺子屋の案内。象さんのマークについて。
アクセス…写真がついていて分かりやすい。駐車場案内。
お問い合わせ…ここからメッセージを書いて送信いただければ、住職へメールが届きます。住職が読んで3日以内にお返事をします。お急ぎの際はお電話を。
いっちゃんの番組で弘仁寺を紹介してもらいました。
「いっちゃんのお寺でじぃーん」http://otera-de.com/という番組で、市原 隆靖さんとお話をさせてもらいました。
番組では、弘仁寺の様子を動画で撮ってもらっています。
まだ弘仁寺に行ったことがないという人には、動画でお寺の内部の様子がよく分かります。
話していて、思いました。
市原さん、素敵です。かっこいいです。
そして、うちのご信者さんには紳士です。
なにより仏教に対して真摯です。
素晴らしい機会をいただきました。
市原さんの今後のますますのご活躍と、無事「いっちゃんのお寺でじぃーん」108回達成を祈念しております。
機会がありましたら、また出たいです。ありがとうございました。
弘仁寺納骨堂のご案内(令和元年5月9日更新)
弘仁寺納骨堂第二期募集中です。
令和元年(2019年)7月下旬完成予定です。現在新規納骨壇の募集をしています。
令和元年に生まれ変わる新納骨堂にご期待下さい。
弘仁寺では、納骨堂相談会の予約を受け付けています。
お電話またはホームページからお問い合わせください。
見本画像が出来ましたので納骨壇の様子を募集案内からご確認ください。(5月9日更新)
護摩祈祷とは
護摩とは火天(インドではアグニ)という神の火柱です。超越を象徴する火柱と自己の身心との対話です。静かに炎を見つめて、火柱と心が溶けていくと、心の奥底に流れる通奏低音に気づきます。私たちが生まれる前から存在する「ことば」という神に、火柱の華を供養します。自力だけではほどけない、絡みついた、「ことば」を火柱は焼き尽くします。古くから日本では、心の自由と人間味と詩情を取り戻すために火柱を見つめてきました。
祈祷とは祈り禱る(いのる)ことです。
祈祷の禱(とう)という漢字の語源は、お米が無事実ることを願ってお祭りをする様子を表しています。近年学校では自助努力が強調され、神仏に「現世利益」を求めることは否定されがちです。ですが、私たちが生きていく上で必要不可欠なお米や麦などの五穀は、人の自助努力だけでは決して実りません。十分な日照や、豊富で清らかな水、そして多くの隣人の協力といった現世(自然と社会)の利益(恵みと思いやり)が必要です。
お米が取れますように、自然が穏やかでありますように、皆助け合いしあわせでありますようにという願いは、自助努力だけでは叶わない、現世利益も含めた願いなのです。
古く平安時代から、日本では天長く地久しく、国土の風雨が季節に相応しく順時おとずれ、五穀が豊かに実り、国中が協力和合し、諸々の人が快く楽しみ、あらゆる世界に平等に利益がもたらされますようにと、祈りが続けられてきました。自分さえ良ければではなく、誰もがしあわせになりますようにと願って、お護摩祈祷を行っております。
お布施って何?どうしたらいいの
お布施とは、心のよりどころとしてのお寺を保全するためのご寄付です。
長くこの場が、続きますようにとのお気持ちで、お布施をしていただいております。
金額に決まりはありませんが、分からないときは住職に「皆さんはどれ位されていますか」と遠慮なくお尋ね下さい。
心が帰る場所、心の居場所を守るためにいただいております。
私達と仏教の関わりの根源を深く深くさかのぼっていくと、
そこには一つのイメージがあります。
それは、私達にはいつでも帰れる所があり、たましいの家族のような場所があり、
大切な拠り所があるというイメージです。
心の古里を守りたいという思いで仏教は2500年続いてきました。
尊い人、心震える話、誰かのために生きた仲間、
そういう大勢の人々が作った大切な場所を守りたい
たましいの家族を守りたい
そのためにお布施をいただいております。
お布施のことを、インドではダーナといいます。
日本語の「旦那」の語源が、ダーナです。
「檀家」の語源もダーナです。
本来、お布施とは施し与えること。
続きますようにと祈りながら。
悲しい時、苦しい時
良くなりますように
良くなりますように
全ては、次の人のためにと思って、祈ります。
お布施の中には、
学んだ教えを伝えるというお布施(法施)
人に笑顔を見せるというお布施(和顔施)
人に人間味のある声掛けをするというお布施(愛語施)もあります。
こうしたお布施の一種として、財産の寄付(財施)があります。
お葬儀の後にいただく財施をもとに、教えの学びや、若手僧侶の育成、寺院補修・整備の支出を行っております。仏教寺院活動が続いていく上で基盤となる大切なお布施だと存じております。
貴重なご寄進を仏道普及に活用させていただいております。
歴史を紐解くと、お布施の始まりは財施からではなかったようです。僧侶が修行を続けられるように僧侶が着る衣の布を施すことから、「お布施」ということばが生まれました。
お釈迦さまから2500年の間、お金だけでなく、食べ物であったり、住むところであったり、学びのための経典や宿舎、修行を支援し手伝う人の生活援助など、様々な形のダーナ(お布施)をいただきながら仏教は続いてまいりました。
長くこの場が、続きますようにとのお気持ちで、お布施をしていただいております。
お布施はこの世を良くするためのものです。
悲しみと苦しみを抱えた心に、
よりどころが見つかりますように。
どうか、心が安らぎますように。
安らぎますように。
合掌
【読める法話1】お寺はこころを観察する道場 Part5
さとりって、「ほら、ここ!ここにあるよ!」というくらい
日常のすぐ近く、仕事のすぐ近くに転がっていて、
見つかる時は、案外すぐ見つかるものなんです。
私たちは、成仏するために努力するのではありません。
もうすでに、わたしは成仏しているんだと
「納得するため」に努力するのです。
コツコツ道場に通っているうちに、本当にすごい人って
いるんだなぁと気づくことが増えてきていつのまにか、
自分も本物にちょっとずつ近づいてきているなぁと
実感するみたいです。
「わたしだって本物なんだ」と納得するために、
心を表現する練習をしてみませんか?
何度も通って、納得するための場所、自分に価値があると
気づくための道場が、弘仁寺です。
【読める法話1】お寺はこころを観察する道場 Part4
心は肉眼には見えません。
心の声は左右の耳からは聞こえません。
だとしたら、本心、本音はどこにあるのでしょうか?
それは、「体と心と言葉の繋がり」の中にあるみたいです。
そして、それに気づくには、道場に通うのがおすすめです。
道場に通って何をするかというと、道場の環境の変化、
自然の変化を見つめ、その「変化」を感じるのです。
(特に水と炎が大事です)
なぜそんなことをするのかというと、本物になる方法は
再現性があるからです。
本物になった人は、やっぱり自然をよく観ています。
ある人は水を眺めて、
ある人は火を眺めて、
ある人は星を眺めて、
ある人は山を眺めて、
ある人は川を眺めて、
ある人は海を眺めて、
ある人は草木を眺めて、
さとりました。
本物の自信がある人は、人の和も大事にします。
ある人は話をしているうちに、
ある人は茶碗を洗っているうちに、
ある人は掃除をしているうちに、
ある人は寝ていたら突然(!?)
大切なことに気づきました。
さとりを開くって、ほとけさまから見たら、
特別すぎる奇跡ではありません。
【読める法話1】お寺はこころを観察する道場 Part3
「道場」と言うと何を思い浮かべますか? 剣道、
柔道、茶道、華道などでしょうか。実は、お寺も
「道場」ですが、残念ながら、道場として使う
ことを忘れられがちです。
お寺は、本当は「自分を観察する道場」です。
しごと、くらし、じぶんは三位一体。
お寺をじぶんの道場としてしっかり使って、
じぶんを見つめ、じぶんを本物だと信じる
練習をして欲しいのです。
そもそも、なぜ私たちは本物を求めるので
しょうか?
それは、安心できないからです。
私たちの心のモヤモヤ、つらさは、どこから
生まれるのでしょう?
それは、「自分のことが、分からないからだ」と
仏さまはおっしゃっています。
さとりをひらくって、「自分の心を如実に知ること」
なんです。
これは、大日経というお経に書いてあります。
「如実に」って何かというと、きれいごとだけではない、
プラスもマイナスも、ポジティブもネガティブも
陰も陽も成長も衰退もどちらも含んだ、本音の自分の
心の声のことです。
自分の本音が、聞こえなくなっているのが
「迷い」なんだというのです。
自分の心の本音をよく聞いて、本心をよく見て、
それを表現する練習を繰り返す、そうするうちに
自分は本物に近づいていきます。