淡彩日記

信じることを基礎にしたら、改善は持続する

2023年03月23日 / 読める法話

信じて待つ。信じて変える。信じて動く。信じて受け止める。そして、出た結果が、良い結果であろうと、残念な結果であろうと、信じて受け止めたら、落ち込みも浮つきもない。淡々と次の改善のサイクルが始まる。

逆に、疑って待ち、疑って変え、疑って動き、疑って受け止めたら、良い結果であろうと残念な結果であろうと、浮ついた心になったり、落ち込んだりすることになる。結果だけを求めて、先を行く人に追いつこうとしても、どこかで息切れして憔悴して、まったく動けなくなってしまう。

(注:ここから仏教の解説がしばらくあるので、ここで一呼吸おいて、最後の段落に飛んでもらって大丈夫です。)

仏教ではこの世に二種類の存在があるという。それは、有為法(ういほう)と無為法(むいほう)だ。有為法は刹那(75分の1秒)ごとに生まれ、反応し、変化し、消滅する。その分類は72種類ある。(善心、悪心、中立な心などが含まれる。細かく分けるとさらに長くなるので、その詳細については、これから別の項で書いていく)逆に変化も反応も生まれも滅しもしないものを無為法(むいほう)という。無為法には3種類ある。その一つを択滅(ちゃくめつ)といい、それを普段は涅槃(ねはん、悟りの境地)と呼ぶ。有為法と無為法とは互いに妨げることがない。

有為法の中には善行(ぜんぎょう)と悪業(あくごう)がある。善行とは楽に繋がる行為で悪業とは苦に繋がる行為だ。

善行はさらに二つに分けられる。楽な結果を生むが輪廻は継続させる有漏(うろ)の善行と、最終的に輪廻から離れ悟りの境地に導く無漏(むろ)の善行だ。

無漏の善行とは、苦も楽も願わず、只々煩悩を滅しつくすということである。それは無為法の世界に導く善行であるとはいえ、有為法の範囲に含まれる行為になる。有為法と無為法は妨げ合わない(互いに原因と結果にならない)はずなのに、なぜ無漏の善行という有為法により無為法である択滅(ちゃくめつ、涅槃)が生じるのかという疑問を持つ人がいるかもしれない。実は、煩悩を滅し尽くしたときにだけ「ある特別な有為法(離繋得りけとく、と呼ぶ)」が生まれ、それが有為法と無為法の間を橋渡しする鍵になるというのだ。離繋得(りけとく)が生まれると、自動的に択滅(ちゃくめつ、涅槃)に入る。そこに因果関係はないという。離繋得(りけとく)を得ると択滅(ちゃくめつ、涅槃)が生じるので、択滅を離繋果(りけか)ともいう。

つまり仏教の修行では、択滅(涅槃、悟りの境地)という無為法を直接求めることはしない。無為法は有為法を原因としないからだ。修行では、あくまで離繋得という有為法を得ることを目的にする。解脱するために頑張っても解脱そのものは得られないが、離繋得(りけとく)を得るために頑張ることはできる。離繋得がえられれば、何の因果関係もなく自然と涅槃に入る。

(注:長く話してきましたが、まとめて言うと仏教の方法論としては再現できる方法がすでに確立していて、矛盾はないようになっているので、善いことを行い、悪いことをしないと信じて行えば、いつの間にか涅槃に赴いているということです。長文お付き合いいただき、ありがとうございます。ここから最後の段落です。上の注から飛んで来られた方は、ここからどうぞ)

信じるというのは、一呼吸おくということなのかもしれない。すぐに反応しないでいいと、信じることなのかもしれない。疑うと、すぐ反応するし、一呼吸おけない。

自分の身心(五感とこころ)の反応を信じてあげよう。身心が疲れているなとおもったら、それを受け止め、立ち止まろう。身心は回復する間をもらいさえすれば、回復すると、信じてあげよう。

お読みいただきありがとうございました。本日もどうぞお健やかに、心穏やかにお過ごしください。

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